想景の地

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岐阜駅周辺の旧東海道本線跡【約100年前!】を探す(引込線も)

※鉄道に関しても、知識はほとんどない人が書いていますので、大きな心でお読みください、
 
岐阜の廃線跡、というと名鉄美濃町線揖斐線岐阜市内線が有名ですね。
また、名鉄岐阜駅(旧新岐阜駅や長住町駅時代)の位置の変遷も知られている方はいるかと思います。
 
そのほかにも、岐阜駅周辺に廃線の跡がありそうなのです。
前々から興味のあったことだったので、ネット検索で軽く調べてみたのですが、どうも簡単には出てきません。
 
ということで、自分で少しだけ深く調べてみることにしました。
 
昔々、岐阜駅はもっと北に駅があったという話をどこかからか聞いたことがありました。
Wikipediaにもそのようなことが書いてあります。(やってはいけない、出典:Wikipedia)
 
また、岐阜駅周辺に、変わった方向へと延びている道とそれに沿う家々があり違和感のある場所がありました。
 
ある時、この情報2つがくっついた時がありまして、ここはもしかして、昔の東海道本線なのでは?と思い、今回調べてみたわけです。
とにかく、昔の東海道本線でなくとも、名鉄かもしれませんし、面白そうだったのです。
 
 
現在の岐阜駅周辺の航空写真です。(とはいえ8年前の2008/4/20のものです。)
イメージ 1
 
8年も前ですが、おおよそ今と変わりはないですので使用。
この頃は、名鉄岐阜駅舎、コンコース等は完成していますが、商業施設「ECT (イクト)」がまだできていないですね。
 
 
同じ場所の明治後期の地図です。
この鉄道、1913年(大正2年)に現在の線の場所に移動したということなので、100年以上前の地図でないと確認できません。
今回は100年も前の廃線跡探しです。
 
この地図、土地感のある方であればすぐに分かるかと思いますが、現在車でよく走るような道のほとんどは影も形もありません。
イメージ 2
 
右の方の至名古屋と書いてある太い道も、今は、車ですれ違う際には気を遣うような、電柱のせり出した道路です。
 
走っている鉄道も、名鉄高山線は無く、東海道本線一本のみです。
カーブの描き方が違うのが分かるでしょうか?
 
分かりやすく二つを重ねてみましょう。
イメージ 3
岐阜中心部のみ、昔は大きく北側回っていたことが分かるかと思います。
昔は、名鉄岐阜駅辺りを東西に鉄道が走っていたということですね。
 
また、現在の航空写真に戻ってみましょう。
明治後期の地図にあった鉄道線を、黄色い線で現在の航空写真の上に書いてみました。
イメージ 4
ずれはあると思いますが、このあたりでしょう。
 
 
ここで、冒頭にて違和感があると書いていた場所を見てみましょう。
左上の赤丸の部分です。
イメージ 5
 
線を引いた箇所と少しずれていますが、斜めに入っているこの部分はほぼ確実に廃線の痕跡でしょう。
ただの斜めではなく、緩やかにカーブを描いているところが鉄道っぽいです。
 
これで、自分が怪しんでいた謎の細道は、廃線跡だったということが分かりました。
 
この重ね合わせで初めて気づいたのですが、先ほどの赤丸から右下延長線にある、赤丸部分も廃線跡のようですね。
ここも斜めの土地が連なっています。
建物自体が斜めで、駐車場も斜めの喫茶店があるのは知っていましたが、ここも廃線跡だったとは。
自分の知らないことが分かると楽しいですね。
 
ここは岐阜駅東側なので、他にも名鉄岐阜駅周辺や西部分も探してはみましたが、ほぼその痕跡は見つけられませんでした。(明治後期の地図の精度の高さが分からないため、断定しずらい。また、その頃の航空写真が無い。)
強いていうのであれば、長住町1の交差点あたりから長住町6までの交差点までの通りは、廃線跡かもしれません。
先ほどの引いてみた黄色い線は、この通りの少し下を通っていますが、誤差の範囲なのかもしれません。
 
一応、あと一つの怪しい箇所はこちら。
イメージ 7
ここの箇所だけ、推定鉄道位置に沿って他とは異様な斜め方向を向いています。
自分の中では廃線跡だろうとは思っていますが、難しいですね。
1920年頃の地図には斜めのような標記は何も無く、1930年頃にもその一帯が資材置き場となっているだけで、確認ができません。
1950年頃の地図にようやくこの道の原型となる標記が出てきますが、それまで廃線跡が放置されおり活用されたのか、偶然の一致なのかは不明です。
1948年の航空写真(一番古いかな?)でも、その斜め具合は確認できます。
今は建物の台形となっており目立ちませんが、このころはガッツリ斜めの建物です。
イメージ 8
しかも、南西方向にも線路跡のような白い線が続いているように見えます。
以上から、ここも廃線跡と思うのですが、どうなんでしょうかね・・・?
 
東部分はしっかり残っている部分が多いのに、名鉄岐阜駅あたりから西側はその名残ほとんどが見られないのか?
ここからは完全な憶測ですが、岐阜の大空襲が関わっていると考えます。
1945年(昭和20年)7月9日には、岐阜市街地の大部分が焼失していますが、東の廃線跡部分についてはその火を免れています。
赤色の部分が、空襲での焼失地域です。イメージ 6
(空襲は、記事を書いている途中に思い浮かびました(^_-)-☆ 記事を書く前は、市街地で開発が盛んだから、で終わるつもりでしたw)
 
 
この焼失地図を見て、感のいい方は気付かれたかもしれないですね。
最初に紹介した廃線跡のあたりに、見慣れない線路の標記があるのです。
こちらはネットでも調べてみると少しだけ出てきます。
これは、昭和30年頃の地図です。
イメージ 9
そう、岐阜駅東側には、JRから大日本紡績と日本専売公社へ引き込み線が存在しました。(知らなかった。)
なんと!先ほどの線路跡と交差しているのです!!
旧東海道本線は1887年~1913年、工場引き込み線1927年?~1966年?なので、同一の時代に存在することはありませんでしたが、クロスしていたことを思うとロマンを感じます。
 
1948/3/27(昭和23)と現在の航空写真を重ねてみると分かりやすいでしょうか。
イメージ 10
 
それぞれ、航空写真のみにするとこうなります。
イメージ 11
イメージ 12
名鉄との交差はどうなっていたんでしょうね?
平面交差でしょうから、信号場を作ってやりくりしていたのでしょうかね。
 
 
ちょうど、旧東海道本線とのクロス部分から分岐が始まるので、これまた何か特別な感じがしますね!
イメージ 13
この廃線跡は、時代が近いからか良く残っているので、分かりやすいかと思います。
航空写真等の資料も多いですし。
 
今回の記事はこれにて以上です。
 
それでは!!
 
航空写真等の出処
Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る
 http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/gmap.html?data=history